昭和49年06月01日 朝の御理解
御理解 第12節
「神に合おうと思えば庭の口を外へ出て見よ、空が神下が神。」
神に合うと言う、金光教では天地金乃神様を主人として拝ましてもらう訳ですが、天地金乃神様と言うのは、天地を支配なさる神様、だから森羅万象のことごとくが、神様の働きいうならば神様と言える、神様と頂く。それがお道のいわば神感です、金光教では神様をかく見る言う訳ですね、そこでその御互い信心をさせて頂いて、その神に合うと言う事がその度重なるその度んびにです、その神様を愈々を信じる、その神様の働きを信じる。それを教祖様は、親子の情を以てあらゆる場合を説いておられます。
親が子を思うその思いというもの、を天地が私共に掛けて下さる、願いとそう思いですから人間の小天地ともいわれる、その小天地と大天地が一つになる働き、と言う所迄信心が高められて行かなければ、神様と私共とが別々というものじゃなくて、バラバラなものでは無くて、神様と私共が一体になるという、そこに御道の信心のいわば真髄があると思う。そこでどう言う事になるかと云うと。
いわば神様の心を心としてと言う事になって来るです。いうなら神様が水でありなさるならば、私共も水の心になると云う事です、神様が水で有りなさるのに、私共が油であっては、側に寄れても一緒になれません。信心一体これが私は本当に神に合うた人の姿だとこう思います。だから信心とは和賀心が神に向うのが御信心じゃと仰せられるのに、和賀心が神に向こうて一歩一歩進んで行くと云う訳です。是は信心一体と言う事になった時にはですね、もう何と申しますかね。
普通悪いことという良い事というものが無く成って来る。私共そこまで行くまでに、例えば良い事は良い事、悪い事は悪い事と致しますけども、信心一体と言う事になると、もう一切がおかげという。これはもう最高の私は境地だと思うんですけども、本当に素晴らしい事になって来る。その信心一体と言う所を、ま目指して段々おかげを頂いて行く訳ですけども、そこで私共がならこうやって見るもの聞くものを、神の姿と見神の声と聞いて、それをまあこう云う表現法をもって。
神様に逢いたいと思えば空を仰いで見れ、下を見て見よと天地がそのままだって事は全てがと言う事だと思うんですが。神様の姿であるぞと、あぁそうか成程そんなものかなと解る程度ではなくて、その神様を解ると云う事はね、人間が本当に神様がその様に解ったら、もういよいよ信心が清まらなければおられない、改まらなければおられない、磨いて行かなければおられない、神様が本当に解った姿、そうして行かなければ神様と一体になれない。この方が祈る所は天地金の神と一心とこう仰るね。
この一心神様と一つの心であり一つの身である、いかに教祖様が天地と同根と言う様な、内容であられたかと言う事が解る、ですから信心をさして頂いた私共も矢張り、それでなければいけない、信心とは本心の玉を磨くもの、信心とは日々の改まりが第一と、信心さして頂く者の第一の、信心の条件というものをです示しておられますけども。何故かというと、本当の神様の働きを言うなら、腹に感じ続けれるというかね、心に頂続けれるという時に、信心者の有り難さと言う物がある訳です。
それは理屈の上で天地そのものが言うならば、神様であり天地を支配ますますのが、神様でありと。解っただけではなくていわゆるその神様を信ずる、それを私共と一つに云うならばその、親であり子でありと言う様な、係わり合いをもって神様を信ずる、だから神様を、本当に信じておる人はですね、改まらなければおられん、磨かなければおられない、そう言う事になるです。
神様を信ずるのではなくておかげを信ずる、という間はねおかげを頂切らん、もうそれで事済んだ様に思う、神様を信ずると言う事になったらね、もう本当に神様を信じ切ったらですね、いうならば改まらなければおられない、磨かなければおられない、だからそこにそれだけのものが、自分の心の中にどの程度に動いておるかと言う事が、神様を信じておる解っておる程度です。
いうならば神様が本当に解ったら、ま言うなら悪い事は出来ない。そしていうならば真の人を目指して精進する、精進して行くその時に、暁がですいわゆる神様と一体になる。そこにはもう悪もなからにゃ膳も無い、そう云う世界にある。その過程清まるとか改まる、その清まるとか改まると言う事が、神様が解れば解るほど信ずれば信ずる程、改まらなければならない、神様を本当に解ったら改まらなければ居られない、磨かなければ居られないと言う事になります。信心のそれぞれの過程を申しますなら。
もう二十年も前でしょうか、あの拝まにゃ通さんという昆虫がおりますよね、今頃カマキリと言いますねあれは、それでもあれは拝にゃ通さんと言うカマキリ、カマキリですねありゃのぼせたしょうじょが居てからその事を言う、ある人が参って来た只お願いだけ、その為には一生懸命一心不乱に神様を拝みなさいと大祓いを一巻、二巻、三巻もうそれこそ、自分の心が本当に神様に向き切ってもうそれこそ、神様と一体になったのだろうかと言った様な、心持になるまで一生懸命拝む。
拝む事によってそこの難所を通して下さるという拝む事によっておかげを下さる。それてもやはり、神様と一体になるいわば初歩の所稽古をさせて下さる訳ですから、一生懸命拝みなさい、ですから本当に神様が解って来たら、もう実は拝まなければおられないね。昨日月末御礼神話会が開かれました、その中で安藤さんが言われましたのが、神様を本当にもったいない様な神様を奉斎させて頂いた、同時に改式もして頂いて、もうとにかくお神様の、お部屋にばっかり入っとろうごたる。
暇さえあればそこで拝みたいという気持ちが起き、神様の前から外れられん様になった。是は神様を愈々身近に感じて下さっておる、だから形の上であっても、そこに麗麗しゅうを奉斎するというところ迄信心が進むとです、矢張り神様との間に神様を外されないと言う様な、拝まなければ居られない様なものが段々なって来る。お掃除もさしてもらわにゃおられないのであり、お供えもなにか、あすこにさいてもらわなにゃおられんのである、お花も取り替えなけりゃおられんのであり。
お明かりも明々と灯明をお供えしなければおられない、そうして神様といわば近ずいて行く、言うならばいうなら手段と申しましょうか。そして拝む事が好きになったと云う所から、今度は拝んだだけでは神様が言う事を聞いて下さらない、次には改まらなきゃ通さん、拝んで通した下さったところが、次はもう改まらなきゃ通さんという、段に入って来た、成程改まらして頂いたら、そこにはっきり縁が見える、印が見えてくる。そして改まると言う事の有難いと言う事も解って来る。
そすと今度は次にはもう愈々その言うならば人間の改まると言う事が、垢を落とすと言う事であるならばです、落としただけではないその、そこから今度は磨かなければ通さん、言った様な段階に入って行く。磨くと言うても矢張りその、体なら体を綺麗にして垢を落としておいて、そして磨いて行くでなけりゃいかん、まだ真っ黒う汚れておるうえから磨いたところで、そりゃいううなら、垢光のようなものであるね。それではいけんやはりスッキリとした光を放つ様な光になるためには。
垢を落とさなければならない、そして又それに磨きを掛けなければならない、そして成程改まりゃこの様なおかげ、磨けばこの様な世界があると言う事が段々実感されて来る。そして愈々神様に近ずいて行く訳です、唯神に逢うと言うだけではなくて、その神様に愈々近ずいてそして、天地金の神と同根と言った様な所まで、お互いの信心が進んで行くと言う事を大体は、眼目としなければならんのが御道の信心です。
和賀心が神に向こうて行くのが信心というてある、ただ説明と言う意味で金光様の信心でどんな神様を拝んでおられるですかと、それは天地を司どって下さる神様なんですよ、天地そのものが言うなら、神様のお姿も同じですよと。はぁそうですかと言う事から、ならその天地を拝む事になります、今まで手を合わせた事も無かった人が天地に対するいうならば、敬虔な祈りを捧げる様になる、拝みだすのである。
そこに今まで拝まなかった時代とは違った世界が開けて来る、それだけではないそこから眼に見えないいうなら、神様、それを愈々信じて来る様になる、眼に見えない神様を信じ。その信ずる過程が改まりであり、そして次には磨くである。愈々神様は磨くこと改まること、いうならそれを求めたもういうじゃなくて、神様が段々そうして解ってくるに従って磨かなければおられんのであり、改まらなきゃおられんのであり、拝まなけりゃおられんのであると言う事。
昨日私はそう言う事を頂きました、こりゃまぁ極端な表現だと思うんですけれども、目に見えないものを信ずる者は善人だと、目に見えないものと言う事は、ここでは神様と言う事です。神様をね目に見えないけれどもその神様を信ずるという人は絶対元気になる、なら今私が申します様に、磨かなければ居られん、改まらなければおられんことになって来るんだもの、神を信ずると。拝みゃおるけど信じんは何拾年もしょるけども、神様を信じていないから、改まりもしなければ、磨きもせん。
只おかげを信ずると言うだけで神様を信じていない、神様を信じたら絶対善人神を信ずる。目に見えないものを信ずる者は善人、目に見えないから信じないと言う者は、悪人であると決め付けてある、してみると金光様の信者ん中んでも沢山悪人が居ると言う事、信心はしょうるけどもおかげは信じるけれども、神様を信じ切らない。だから是は信心の無い者なんかは、どんなにあの人は仏様のようなひとじゃ、神様のようなひとじゃというてもです、それは目に見えない神様を信じていないからもう矢張り悪人だと。
ここん所の私は自分の表現がまずいんですけれども、これはま極端な表現ですけれども、目に見えない神様を信ずるということだったら、絶対善人にならんきゃおられんのです、いうなら御道の信心でいうなら、真の信心真の人にならなきゃ居られん。それがいわば、お御の信心、めに見えないからね信じない、それは悪人だ、ここは善人、悪人と言う事を神様が解る事によっていうならば、真の人を目指す神様を解らないから、知らないから、唯自分な別に悪い事せんからとか。
人を傷つけたり殺したりしないから、もうそれで一方の善人の様に思うとるけども、目に見えないからと言うてそれを信じない者はもう皆んな悪人だ。だけれども金光様のご信心を頂いておりましてもです、その神様をどれほど信じておるかと言う事です。体験はもっておる、おかげは頂いておる、けれども神様を本当にいうならば神様が水の状態でおありになるならばです。
私共もその水にならなければおられないのが信心です。だからそれを目指して行くと言う事は、始めの間は拝む事から始まる、拝む事が嬉しゅうて楽しゅうて、ご神前を離れたくないごたある、と言う所からからですもう次には拝んだだけではいけん、改まらにゃ通さん又は磨かなきゃ通さん、というふうにしてです、なら神様が水であるならその水になって行きよる心の状態が、いやそうなければおられない。
その信ずるその過程で、お道の信心で言うここでは、神に合おうと思えば庭の口を外へ出てみよとこう仰せられますけれども。その神様とその天地と、私共が一体になると言う事が信心。そこに拝む改まる、又は磨くと云う段階を追うて、かみさまは近ずいて行く、神様へ近ずいて行けば行く程にです、いわゆる神様が信じれてくれば信じれてくる程、もう是で良いということはないもう愈々、神様へ向う自分の心を比較さして頂く精進がなされて来る事になるのです。
磨けといわれるから磨くのではない、磨かにゃおれんのである、その一番信心に入っておかげを頂いて段々、安藤さんじゃないけれども、そこまでに到られるまでにやはり拾何年かかっておられます。いうなら奉斎をする、神様改式をするそこからあの神様から離れられない、拝んでばっかりおろうごたるところに入ってそこから愈々、改まる、磨く、ということになって行くです。
目に見えない神様、目に見えない御霊様、そういう神様やら御霊様を愈々信ぜれる事になる、神様を信じれたらもういうならばもうしめたものです、神様を信ずれば信ずる程、改まらなければおられん、磨かなければおられん、所謂目に見えないものを信ずる者は、いわば皆んなが真の人であり、善人である。是程しの信心をさせて頂いておってもまだ。悪人であるという様な所でまあぐずぐずしてあるいう人が。
どれくらいあるか解りません、お徳を受けた方達のお話を頂きますと、目に見えるとこより目に見えないところを、大事にした人達ばっかりです。それはその方がどの位神様を信じておられたかということが解るでしょう。私共は目に見えるところは立派にしますけれども、目に見えないところを疎かにしない、それは神様を信じておる人とはいないだけになるですね。
どうぞ。